 |
引佐には、井伊谷地区を中心に井戸や井水にまつわる伝承や信仰が数多くあります。白岩水神社の鰻井戸の伝承をはじめ、遠州七不思議に数えられる柳井戸、さらには井伊氏の氏祖共保公出生の伝えられる龍潭寺前の井戸などです。
また、古い神社である渭井神社もその位置から水神を祀った神社といわれています。井を源とする渭井の地は奈良・平安時代に渭井郷とされ、現在の井伊谷という地名に引き継がれたのです。 |
 |
井伊谷地区を見下ろすように、周りの丘陵上には四〜五世紀に築造された古墳がみられます。北岡大塚古墳、馬場平古墳、谷津古墳などの大型古墳は、この地の王が浜名湖一帯の遠淡海地方を広く支配していた豪族であることを物語っています。
また、渭井神社の北側丘陵上にある古墳時代の巨石祭祀遺跡である天白磐座遺跡も水神祭祀の跡とされることから、井の国の王は、この地に実りをもたらす大切な水を連綿と祀ったことがわかります。
六〜七世紀になると、井の国の王の後裔がその後も栄えたことを物語るように、井伊谷一帯の丘陵部には多くの円墳が築造されています。
|
 |
南北朝時代の引佐は、遠州における南朝方の重要な拠点でもありました。三岳山の三嶽城に後醍醐天皇の皇子である宗良親王を迎えた井伊氏は、井伊谷城や奥山城、田沢城といった支城で守りを固め、北朝方である今川勢らの大軍と戦いました。
しかし、足利軍により三嶽本城、そして奥山城を落とされた宗良親王は信濃へと退きましたが、最後は井伊谷の地で歿したとされます。 |
 |
戦国時代の三方ヶ原合戦は有名ですが、実はこの戦の前哨戦は引佐北部で繰り広げられました。
元亀三年十月、武田信玄率いる二万五千人の大軍が遠州に攻め入った際、武田軍の重臣である山県昌影の別働隊が東三河の柿本城を攻めたのでした。柿本城を守っていた井伊谷三人衆の一人鈴木重好は、伊平城まで退いて山形隊を迎え撃とうとしましたが、その途中にある仏坂で追いつかれてしまい、血みどろの戦いが行われました。その時の戦死者を祀った跡が、"ふろんぼ様"とよばれる1画に残されています。引佐町には多くの神社・仏閣がありますが、このような度重なる戦乱と無関係ではありません。遥か古からの時の流れと深く刻まれた歴史の痕跡を、今に残す引佐町。この地を訪れたとき、人は緑と花の豊かな自然の中で、ことさら感慨深い歴史の妙味も同時に味わうことでしょう。
|